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  • 【ちよだ歴史さんぽMAP】ちよだ江戸・東京事件の現場めぐり「丸の内東御苑コース」

  • recommended by千代田区観光協会「ちよだ歴史さんぽMAP」制作担当者さん
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 千代田区観光協会「ちよだ歴史さんぽMAP」制作担当者

CHIYODA LOCALS今回のちよだ人

千代田区観光協会「ちよだ歴史さんぽMAP」制作担当者

今回は千代田区観光協会が、区内に残る史跡や名所など歴史的価値のある観光スポットをまとめたちよだ歴史さんぽMAP④「江戸・東京事件の現場めぐり」からコースを紹介。「マップを見ながら千代田区周辺の歴史を楽しむのはもちろん、街並みや自然、建物を楽しみ、さらに素敵なお店などを知ってもらいたいです」と語る。

> ちよだ歴史さんぽMAP④「江戸・東京事件の現場めぐり」

 【ちよだ歴史さんぽMAP】ちよだ江戸・東京事件の現場めぐり「丸の内東御苑コース」
 

約260年もの間続いた江戸時代。かつて江戸城があった千代田区には、時代のキーポイントとなった事件の舞台が多く存在します。ここでは、江戸幕府を巡る騒動を中心に、時代を象徴するスポットを紹介。歴史の岐路となった現場で、かつての人々に想いを馳せてみてください。

酒井家上屋敷跡「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」のモチーフは仙台藩の内紛劇

  • #歌川国貞作「伽羅先代萩」《藁田直則》 東京都立中央図書館特別文庫室伊達騒動をモチーフにした歌舞伎狂言「伽羅先代萩」の一場面。
  • 1671年(寛文11)
    伊達騒動(将門塚)

    江戸三大御家騒動の一つとされる伊達騒動は、3代藩主・綱宗が不品行を理由に幕府から隠居を命じられたことに始まりました。代わって藩主となったのは、まだ2歳の長男・亀千代。伊達兵部(初代藩主政宗の10男)が後見役となり、家老・原田甲斐を重用して藩政を動かしました。一方、兵部の専制に反発した伊達安芸は、幕府に藩の内情を訴え、幕府が取り調べることになりました。
    詮議の場となったのが、大老・酒井忠清の上屋敷。ここで原田が安芸を斬殺、原田も酒井家家臣により斬殺されることに。藩の内紛は迷宮入りとなっりましたが藩の存続は許されたのでした。

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 酒井家上屋敷跡

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住所 東京都千代田区大手町1-2-1

大手門橋戦禍を免れ、江戸から東京へ

  • 1868年(慶応4)
    江戸無血開城

    4月10日、最後まで大奥に残った天璋院(13代将軍家定の正室)が江戸城から退去し、現在の竹橋駅近くにあった一橋邸へと向かいました。翌11日、江戸城明け渡しをもって、約260年にわたる徳川幕府は終わりを告げました。明け渡しのおよそひと月前、江戸を包囲した新政府軍は幕府軍に総攻撃を仕掛けようとしていました。その直前、三田(東京都港区)の薩摩藩邸で陸軍総裁・勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談が実現。結果、最後の将軍慶喜の恭順をもって、江戸攻撃の中止がなされ、江戸無血開城が決定したのです。100万人が暮らす江戸は戦禍を免れたのでした。
    その後、江戸は東京と名称を変え、江戸城は皇居となり、翌1869年3月に新たな主人となる明治天皇を迎えます。江戸城周辺の大名屋敷は官庁街に生まれ変わり、首都東京が誕生したのでした。

  • #小堀鞘音作《東京御着輦(れん)》/聖徳記念絵画館 明治元年(1868)10月13日明治 天皇の一行が、江戸(東京)に到着し、二重橋をわたって城に入る様子を描いた作品。

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 大手門橋

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住所 大手町一丁目・丸の内一丁目~皇居東御苑

松の大廊下跡赤穂浪士討ち入り事件の発端となった

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  • 1701年(元禄14)
    松之大廊下刃傷事件

    事件当時、朝廷からの勅使が年賀返礼のため江戸に下向していました。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は勅使馳走役として登城していて、その指南役にあたっていたのが高家(朝廷関係の儀礼や交渉にあたる名家)吉良上野介義央でした。
    4月21日、江戸城の松之大廊下で、浅野が吉良に斬りかかりまた。両者間に何があったか定かではありませんが、江戸城内の刃傷沙汰は大罪。浅野は即日切腹を命じられ、お家断絶となりました。負傷した吉良へのおとがめはなく、お家の再興も退けられた赤穂浪士47人は、翌年12月吉良邸に討ち入り本懐を遂げます。この事件は『仮名手本忠臣蔵』をはじめ、歌舞伎や映画で語り伝えられています。

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 松の大廊下跡

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住所 皇居東御苑内

天守台江戸の大半が焼失し、死者10万人に及んだ

  • 1657年(明暦3)
    明暦の大火

    江戸を襲った大火のなかで最大の被害をもたらしたのが、明暦の大火(振袖火事)。本郷丸山(現・文京区本郷5丁目)の本妙寺で、呪われた振袖を供養しようと火に投じたところ、振袖が舞い上がって御堂に火がついたのが発端と伝わります。この火事で江戸の町の約6割が焼失、10万人の命が奪われ、江戸城内も西の丸を除きすべて焼け落ちました。
    火事のあと、「城下復興にこそ予算を費やすべき」という会津藩主・保科正之の意見により、天守の再建は基礎の台座部分のみで工事中止となりました。いまも残る天守台は、大火とそこからの復興の象徴です。

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 天守台

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住所 皇居東御苑内

平川門大奥の最高実力者と歌舞伎役者のスキャンダル!?

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  • 1714年(正徳4)
    江島・生島(えじま・いくしま)事件

    1714年、ひとりの女性が江戸城を追放され、平川門(不浄門)から信州へと送られました。7代将軍・家継の生母・月光院に仕える御年寄(大奥女中の最高実力者)の江島です。2月26日、月光院の名代として上野寛永寺と芝・増上寺に参詣した江島は、その帰途、山村座へ赴きます。歌舞伎見物、役者生島新五郎らとの酒宴を楽しみましたが、帰城の門限(夕方4時ごろ)に遅れたことが大問題となります。さらに生島との情通を追及され、江島は信州にお預け、生島は三宅島に流罪。ほか関係者約1500人が処分されました。しかし、ふたりの密通は事実無根で、月光院派の失脚を狙った6代将軍・家宣の正室・天英院派の陰謀だったともいわれています。

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 平川門

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住所 東京都千代田区千代田1

竹橋待遇改善を求めた近衛砲兵の反乱

  • 1878年(明治11)
    竹橋事件

    8月23日、竹橋御門近くの近衛砲兵隊陣営の兵士ら約260名が、天皇に待遇改善を直訴すべく蜂起しました。しかし、事前に計画を知った内務卿・伊藤博文が鎮圧を命じ、兵士らは代官町通りを中心に銃撃戦を繰り広げながら赤坂仮御所に向かいますが、弾丸つきて武装解除されます。天皇の護衛にあたるべき近衛兵が反乱に及んだ原因は、前年の西南戦争です。戦地に駆り出され、多くの戦死者を出しながらも勝利へと導く働きをしたにもかかわらず、兵士への恩賞が薄かったうえ、陸軍の予算削減を理由に減給されたことに不満を募らせたのです。事件後、55人が死刑。これを機に、陸軍卿・山縣有朋は軍の統制強化を進めました。

  • #小林清親作《近衛砲兵暴発録之画》部分 /ジャパンアーカイブス

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 竹橋

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住所 東京都千代田区北の丸公園~一ツ橋一丁目

日本武道館日本武道の聖地がコンサート会場に!

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  • 1966年(昭和41)
    ビートルズがやってきた!

    6月30日~7月2日、日本武道館でビートルズの初来日コンサートが開催されました。5万人の募集に対し、24万を超す応募が殺到したと伝わります。今では多目的に利用される武道館ですが、コンサート会場としての使用は、この日が初めて。神聖な武道館でのコンサート開催に「日本武道に対する冒涜」と反対する声もありました。 警視庁では混乱を避けるため、「ビートルズ対策会議」が招集され、当日は2000人を超える警察官やガードマンが厳戒態勢で臨みました。

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 日本武道館

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住所 東京都千代田区北の丸公園2-3

清水門公武合体の象徴、幕末のプリンセス江戸に下る

  • 1861年(文久元)
    和宮降嫁(かずのみやこうか)

    桜田門外の変で、幕府の権威は失墜しました。老中・安藤信正は、朝廷との融和によって幕府の権威を回復しようと考え、朝廷に14代将軍・家茂への降嫁を求めました。孝明天皇は「攘夷」を条件に、妹・和宮の降嫁を認めます。そして1861年11月15日、和宮一行は江戸に到着し、清水邸に入りました。このときの和宮の行列は、およそ6000人にもおよぶ絢爛豪華なものだったといわれます。なお、婚儀は翌年2月11日に行われました。

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 清水門

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住所 東京都千代田区北の丸公園1-1

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