天下泰平と呼ばれた江戸時代、一気に西洋に舵を切った明治時代、それぞれに劇的な事件が繰り広げられてきました。今も残る史跡をめぐり歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。大手町駅をスタートし東御苑・北の丸公園にいたるコースです。
”「伽羅先代萩」のモチーフは仙台藩の内紛劇”
江戸三大御家騒動の一つとされる伊達騒動。仙台藩3代藩主・綱宗が不品行を理由に幕府から隠居を命じられたことに始まります。代わって藩主となったのは、まだ2歳の長男・亀千代でした。伊達兵部(初代藩主政宗の10男)が後見役となり、家老・原田甲斐を重用して藩政を動かしました。一方、兵部の専制に反発した伊達安芸は、幕府に藩の内情を訴え、幕府が取り調べることになりました。
詮議の場となったのが、大老・酒井忠清の上屋敷で、ここで原田が安芸を殺害、原田も酒井家家臣により斬殺されました。藩の内紛は迷宮入りとなりましたが藩の存続は許されました。
”戦禍を免れ、江戸から東京へ”
1868(慶応4)年4月10日、最後まで大奥に残った天璋院(13代将軍家定の正室)が江戸城から退去し、現在の竹橋駅近くにあった一橋邸へと向かいました。翌11日、江戸城明け渡しをもって、約260年にわたる徳川幕府は終わりを迎えました。
明け渡しのおよそひと月前、江戸を包囲した新政府軍は幕府軍に総攻撃を仕掛けようとしていました。その直前、三田(東京都港区)の薩摩藩邸で陸軍総裁・勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談が実現。結果、最後の将軍慶喜の恭順をもって、江戸攻撃の中止がなされ、江戸無血開城が決定しました。100万人が暮らす江戸は戦火を免れたのでした。
その後、江戸は東京と名称を変え、江戸城は皇居となり、翌1869年3月に新たな主人となる明治天皇を迎えました。江戸城周辺の大名屋敷は官庁街に生まれ変わり、首都東京が誕生したのです。
”赤穂浪士討ち入り事件の発端となった”
事件当時、朝廷からの勅使が年賀返礼のため江戸に下向していました。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は勅使馳走役として登城しており、その指南役にあたっていたのが高家(朝廷関係の儀礼や交渉にあたる名家)吉良上野介義央でした。
4月21日、江戸城の松之大廊下で、浅野が吉良に切りかかりました。両者間に何があったのか定かではありませんが、江戸城内での刃傷沙汰は大罪。浅野は即日切腹を命じられ、お家は断絶となりました。負傷した吉良へのお咎めはなく、お家の再興も退けられた赤穂浪士47人は、元禄15年吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。この事件は『仮名手本忠臣蔵』をはじめ、歌舞伎や映画で語り伝えられています。
”江戸の大半が焼失し、死者10万人に及んだ”
江戸を襲った大火のなかで最大の被害をもたらしたのが、明暦の大火(振袖火事)。本郷丸山(現・文京区本郷5丁目)の本妙寺で、呪われた振袖を供養しようと火に投じたところ、振袖が舞い上がって御堂に火がついたのが発端と伝わっています。
この火事で江戸の町の約6割が焼失し、10万人の命が奪われ、江戸城内も西の丸を除きすべて焼け落ちました。火事のあと、「城下復興にこそ予算を費やすべき」という4代将軍家綱の補佐役(大政参与)会津藩主・保科正之の意見により。天守の再建は基礎の台座部分のみで工事中止となりました。今も残る天守台は、大火とそこからの復興の象徴です。
”大奥最高実力者と歌舞伎役者のスキャンダル!?”
1714年、ひとりの女性が江戸城を追放され、平川門(不浄門)から信州へと送られました。女性は7代将軍・家継の生母・月光院に仕える御年寄(大奥女中の最高実力者)の江島でした。
2月26日、月光院の名代として上野・寛永寺と芝・増上寺に参詣した江島は、その帰途、山村座へと赴き歌舞伎見物、役者・生島新五郎らと酒宴を楽しみました。宴会に夢中になるあまり帰城の門限(夕方4時ごろ)に遅れたことが大問題となりました。さらに生島との情通を追及され、江島は信州にお預け、生島は三宅島に流罪。ほか関係者役1,500人が処分されました。ですが、二人の密通は事実無根で、月光院派の失脚を狙った6代将軍・家宣の正室・天英院派の陰謀だったともいわれています。
”待遇改善を求めた近衛砲兵の反乱”
8月23日、竹橋御門近くの近衛砲兵隊陣営の兵士ら約260名が天皇に待遇改善を直訴すべく蜂起した事件です。ですが、事前に計画を知った内務卿・伊藤博文が鎮圧を命じ、兵士らは代官町通りを中心に銃撃戦を繰り広げながら赤坂仮御所に向かいましたが、弾薬が尽き武装解除されました。
天皇の護衛にあたるべき近衛兵が反乱に及んだ原因は、前年の西南戦争にありました。戦地に駆り出され、多くの戦死者を出しながらも勝利へと導く働きをしたにもかかわらず、兵士への恩賞が薄かったうえ、陸軍の予算削減を理由に減給されたことに不満を募らせたためでした。事件後55人が死刑となり、その他多くの者が流刑や懲役、禁固刑とされました。この事件を機に、陸軍卿・山縣有朋は軍の統制強化を進めました。
”日本武道の聖地がコンサート会場に!”
6月30日~7月2日、日本武道館でビートルズの初来日コンサートが開催されました。5万人の募集に対して、24万を超す応募が殺到したと伝えられています。
今では多目的に利用される武道館ですが、コンサート会場に使われるのはこの時が初めてでした。「神聖な武道館」でのコンサート開催に「日本武道に対する冒涜」と反対する声もあったそうです。
警視庁では混乱を避けるため「ビートルズ対策会議」が招集され、当日は2,000人を超える警察官やガードマンが厳戒態勢で臨みました。
”公武合体の象徴、幕末のプリンセス江戸に下る”
桜田門外の変で幕府の権威は失墜しました。
老中・安藤信正は、朝廷との融和によって幕府の権威を回復しようと考え、朝廷に14代将軍・家茂への降嫁を求めました。孝明天皇は「攘夷」を条件に妹・和宮の降嫁を認めました。
そして、1861年11月15日、和宮一行は江戸に到着し、清水邸に入りました。このときの和宮の行列はおよそ6,000人にもおよぶ絢爛豪華なものだったといわれています。
婚儀は翌年2月11日に執り行われました。
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