皇居・東京駅・日比谷 デ・リーフデ号像
INFORMATION基本情報
- 所在地東京都千代田区丸の内2-4-1
- アクセスJR / 東京メトロ丸ノ内線「東京駅」丸の内南口より徒歩1分
八重洲の地名の由来にも。徳川家康が深く関わるデ・リーフデ号像
東京メトロ丸の内線の東京駅に直結した「丸の内ビルディング」。通称”丸ビル”の名で親しまれる「丸の内ビルディング」の横に「デ・リーフデ号像」は建っています。この像は、1980年にオランダ王国のファン・アフト首相が来日した際に寄贈されました。
もともと、この「デ・リーフデ号像」が建つ丸の内2丁目の近くに「八重洲河岸」がありました。この八重洲という名称は、デ・リーフデ号に乗っていたオランダ人の船員ヤン・ヨーステンが由来しています。
ヤン・ヨーステンは、遡ること1600(慶長5)年の4月、商船のデ・リーフデ号で九州に漂着しました。当時、デ・リーフデ号は日本に漂着した初のオランダ船と言われています。
漂着後ヤン・ヨーステンは、当時大名だった徳川家康の信頼を得て、外交と砲術の顧問となります。そして、同年の1600年9月に関ヶ原の戦いが勃発。戦時には、デ・リーフデ号に備わっていた大砲が活用されると共に、それを扱える砲員が戦地に赴きました。さらにヤン・ヨーステンは甲冑を改良し当世具足(とうせいぐそく)に仕立てるなど、戦いに多いに貢献します。結果、家康は関ヶ原の戦いに勝利し、天下統一を成し遂げました。
その後、ヤン・ヨーステンに与えられた屋敷が江戸城の内堀にあったことから、このお堀はヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす)」にちなんだ「やよす河岸」と呼ばれ始めました。この「やよす河岸」が転じて「八重洲海岸」に定着したと言われています。なお、その後1929年、東海道線を境に皇居側を丸の内、海側を八重洲と地名変更がされています。
徳川家康の天下統一の一端を担ったヤン・ヨーステン。「デ・リーフデ号像」を見た後は、現在の馬場先門から和田倉にあたる、ヤン・ヨーステンに授けられた屋敷付近を散歩してみるのもおすすめです。
※掲載情報は、2023年1月時点のものです。