鹿鳴館跡

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INFORMATION基本情報

  • 所在地東京都千代田区内幸町1-1-7
  • アクセス都営三田線「内幸町駅」A5出口より徒歩2分

不平等条約を改正するため建設。明治の一時代を象徴する社交場「鹿鳴館」

明治16(1883)年、政府や貴族の社交場として建設された「鹿鳴館(ろくめいかん)」。現在は、建物があった帝国ホテルと日比谷U-1ビルの境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれていましたが、再開発のため2022年11月頃撤去されました。

「鹿鳴館跡

ここはもと薩摩の装束屋
敷の跡であってその黒門は
戦前まで国宝であった
その中に明治十六年鹿鳴館
が建てられいわゆる鹿鳴館
時代の発祥地となった

千代田区」

「鹿鳴館」は、当時の外務大臣であった井上馨が、不平等条約の改正を早める目的で建設を計画しました。井上馨は、条約の改正には日本人が西欧文化を受け入れている様子を外国人に伝えることが必要だと主張。イギリス人のジョサイア・コンドルが設計した「鹿鳴館」は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築となりました。館内には、宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたそうです。

開館後は政府や貴族が、外国の使臣や紳商を招待。連日のように、園遊会や舞踏会、夜会、バザーなどの催しが開かれました。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称され、「鹿鳴館」を中心にした外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれることになります。このような欧化主義が広まっていく一方で、自国民の文化や伝統を守りたいとする国粋主義の動きが盛んになり、条約改正反対に対しての熱が高まりました。

結果、井上馨の条約改正は失敗に終わり、「鹿鳴館」は明治27(1894)年に華族会館として払い下げられることになります。その後、昭和2 (1927)年には現在の大和生命保険に売却され、昭和15 (1940)年に建物は解体されました。

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