大正デモクラシーから戦争、敗戦を経て本格的な民主化へ発展する歴史のなかで政治の中枢だった千代田区内ではデモや暴動、クーデターなど日本を揺るがす事件が多発しました。
その内、日比谷~霞が関を辿るコースをご紹介いたします。
”二人の首相、東京駅で命を狙われる”
東京駅丸の内南口、券売機手前の床面に埋め込まれた小さな◎マークは、時の首相・原敬が殺害された現場です。
事件発生は1921年11月4日午後7時25分ごろ。京都で行われる立憲政友会近畿大会に出席するため、改札口へ向かっていたところを飛び出してきた19歳の青年に襲われました。短刀で刺された傷は心臓に達し、数分後に絶命しました。党利党略を優先した原の政策に対する怒りが犯行動機だったといいます。これが昭和初期に多発するテロやクーデターの幕開けともいえる事件でした。
原敬暗殺から9年後、またも東京駅で首相襲撃事件が起こりました。1930年11月14日朝9時前、岡山に向かう浜口雄幸首相を銃撃したのは右翼活動家の男だった。事件の半年ほど前、浜口がロンドン海軍軍縮条約を締結したのは統帥権干犯(天皇の権限の侵犯)にあたる、というのが犯行理由でした。浜口は、傷が癒えぬうちに議会に出席させられたため悪化し、翌年8月に他界しました。
現場となったホームは修復・改造工事などにより失われ、中央通路の一部となりました。この通路の途中、新幹線中央乗り換え口への階段近くの柱に事件概要を伝えるプレートがあり、床面に事件の現場を示す◎マークが埋まっています。
”GHQ占領下におかれた日本”
終戦直後の8月23日、進駐軍が欧米から続々とやってきました。30日にはアメリカから最高司令官ダグラス・マッカーサーが到着。日本の占領を主導するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)本部が日比谷の第一生命ビル(現・DNタワー21)に置かれ、民主化政策が発せられました。9月27日には、昭和天皇がマッカーサーを訪問しました。
現在マッカーサーの執務室は当時の姿に復原され、マッカーサー記念室となり一般公開されることもあります。このほか、警視庁や帝国ホテル、明治生命館、九段会館、日本工業倶楽部など、戦火を免れた多数の建造物がGHQに接収されました。
”はかなく散った文明開化の象徴”
ニコライ堂や三菱一号館などを設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの手により1883年に鹿鳴館は完成しました。開国の際に結んだ不平等条約の改正をめざす外務卿・井上馨の欧化政策の一環でした。
現在の帝国ホテル横に建てられたレンガづくりのこの洋館は、外国貴賓接待や上流階級の社交場となり、舞踏会や園遊会が開かれました。しかし4年後の1887年に井上が条約改正に失敗し辞職するとその役目を終えました。
鹿鳴館はその役割を終えたのちも、華族会館などとして使用され1940年に取り壊されました。
”日本を憂いた17歳少年による犯行”
10月12日、日比谷公会堂で、自民・社会・民社3党の党首による立会演説会が開かれました。日本社会党(現・社会民主党)委員長・浅沼稲次郎が演説を始めると、短刀を手にした学生服姿の少年が壇上に駆け上がり、2度刺したといいます。浅沼はすぐに病院に運ばれましたが、まもなく息をひきとりました。右翼団体・大日本愛国党の党員だった17歳少年の犯行で、安保闘争の指導的立場にあった浅沼の暗殺を決行したのでした。襲撃者の少年は逮捕され拘留中に自殺しています。
”井伊直弼の強引な政策、執拗な弾圧への報復”
1860年3月3日、江戸は朝から大雪に見舞われました。江戸幕府の最高実力者であった大老・井伊直弼は、上巳の節句(雛祭り)で登城の途中、桜田門の手前で水戸浪士らによって暗殺されました。
事件は、大老に就任した井伊が、勅許(朝廷の承認)を得ずに、日米修好通商条約に調印したことに端を発します。幕府の強引な進め方に批判の声が高まると、井伊は外国を排斥しようとする攘夷論者をはじめ、多数の反対派を弾圧しました。吉田松陰らの獄死でも知られる「安政の大獄」です。このとき、御三家である水戸藩までも弾圧の対象となりました。尊王攘夷思想を抱く一部の過激な水戸浪士らがこれに反発し、井伊暗殺に及びました。
これにより、水戸徳川家と譜代筆頭・井伊家の関係は険悪になり、この流れが明治維新に繋がっていきました。
”青年将校らのクーデターで戒厳令発令”
2月26日未明、日本中に激震が走りました。腐敗した政党・官僚・財閥に絶望し、天皇親政の下で国家改造を夢見る、陸軍「皇道派」の青年将校ら22名が約1,500人の下士官・兵を率い、都内各所で同時多発的に政府要人の官邸や私邸を襲撃するとともに、首都中枢の占拠を開始しました。桜田門前の警視庁もおよそ400人の兵士の襲撃により占拠され、東京に戒厳令が出され、九段会館内に戒厳司令部が置かれました。
重臣殺傷に天皇は激怒し、軍首脳が鎮圧に乗り出すと、反乱軍の多くが投降し、4日にわたるクーデターは幕を閉じました。兵士の大多数が計画を知らず、演習と思い参加していたといいます。
”日本を揺るがした戦後最大の政治闘争”
東西冷戦が激化していた1960年、岸内閣が取り組んだ日米安全保障条約(安保条約)改定の内容が明らかになるにつれ、国民の間に反対の気運が高まり、国会議事堂周辺では連日、安保条約に反対する学生や労働者、左翼グループなどによる大規模な抗議デモが行われました。
6月15日には全学連主流派の学生およそ8,000人が国会に突入し、警察官と衝突。女子学生ひとりが死亡、数百人が重軽傷を負う事件に発展しました。6月18日夜も4万人超が国会を取り囲んで抗議するなか、19日午前0時、安保条約は参議院の議決を得ることなく、自然承認に至りました。
”過激派将校らによる反乱”
5月15日午後5時半ごろ、永田町の首相官邸が襲撃されました。
時の首相・犬養毅は、乱入してきた青年将校らに中国軍閥との金銭問題を追及され、「話せばわかる」と説得を試みましたが、将校らは「問答無用」と発砲。2発目の銃弾が頭部を貫き絶命しました。
首謀者は、首都を混乱に陥れ戒厳令下での軍事政権樹立を企てていました。同年3月に三井銀行(現・三井本館)前で三井財閥重鎮・團琢磨を暗殺した血盟団の残党と結んでの犯行でしたが、目的を果たすことなく幕を閉じました。
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住所 | 東京都千代田区永田町1-7 |
TEL | 03-5521-7445 |
営業時間 | 9:00~16:00(9:00、10:00、11:00、12:00、13:00、14:00、15:00、16:00の一時間ごとに参観のコース案内が開催) |
所用時間 2.5H