大久保利通 【おおくぼ としみち】

1830年~1878年
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幕末・明治初期の政治家。明治の元勲。薩摩藩御小姓組・大久保次右衛門利世の子で、名は利済。

1846年に、17歳で薩摩藩記録所に入る。藩主・島津斉彬の信任を受け、同志の西郷隆盛と革新的な誠忠組を結成。

1858年には敬愛する斉彬の死にあい、殉死を図るが果たせなかった。幕政改革に力を注いだ斉彬の遺志を継ぎ、藩主久光のもとで、藩政改革や公武合体運動に参加。その後、薩長戦争や幕府の長州征伐を契機に、尊王倒幕に転じる。

1866年、長州の木戸孝允と薩長連合を結び、翌年、岩倉具視と連帯。倒幕派の中核的存在となって、王政復古の政変を実現した。新政府成立後は、参与、参議、大蔵卿をつとめる。

1869年(明治二)に版籍奉還を行い、1871年には廃藩置県に成功。中央集権の礎を築いた。また岩倉遣外使節団の副使として、伊藤博文とともに欧米諸国を歴訪。1873年帰国。

西郷隆盛の提唱する遣韓大使問題(征韓論)に反対する。内務卿となるが、1874年、佐賀の江藤新平一派の起こした佐賀の乱を平定。

さらに1877年、西郷隆盛を敬慕する鹿児島士族の反乱で西南戦争が勃発。新政府最大の危機を乗り越えて、これを制圧。度重なる保守派士族の抵抗には、強硬に対応した。地租の改正や殖産興業など、資本主義の育成に心血を注ぎ、多難な国事にあたって内政の確立を図り、ゆるやかな立憲政体をめざすなど、日本の近代化に大きな足跡を残した。

1878(明治11)年、東京の紀尾井坂で、石川県士族島田一郎の凶刃に倒れる。
事件後、現場近くの地に、大久保利通の哀悼碑が設置され、後に整備されて清水谷公園となった。