小栗忠順 【おぐり ただまさ】

1827年~1868年
  • ヒストリー&カルチャー
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幕末期の幕臣。豊後守。上野介。江戸の生まれ。
新潟奉行・忠高の子。一八五五年(安政二)、小栗家二五〇〇石を継ぐ。
五七年に◆使番【つかいばん】となり、五九年には目付へ進む。
翌年、日米修好通商条約の批准書交換のために派遣された、使節団の監察として渡米。
正使は新見正興、副使は村垣範正だったが、実際に取り仕切ったのは、目付の小栗だったという。
フィラデルフィアの造幣局、ワシントンの海軍造船所なども視察して帰国。
その後、外国奉行に昇進し、二〇〇石を加増された。六一年(文久元)、ロシア軍艦の対馬占領事件が起こると、幕府の命を受けて現地に向かい説得にあたったが、退去の要求にロシアは応じず、交渉は不成功に終わった。そのため免職されるが、以後、勘定奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行など、財政・軍事の要職を歴任。その間、陸海軍の充実に力を入れ、フランス式軍制を採用。フランス士官を招き、洋式訓練をおこなった。また、横須賀に造船所や製鉄所を設置し、そのほか大砲や兵器改善のために鉄鉱の採掘を試みるなど、軍事力の強化につとめた。

一方、財政面では、幕府の財政確立のための重要な財源として関税収入に目をつけ、六六年の関税率改定交渉に際しては、中心人物として参加。事実上の蔵相として、困難な幕府最末期の財政を担当した。
さらに小栗は、幕府を中心とする絶対主義的改革をめざし、幕藩制に代わる郡県制の採用を考慮するなど、幕末随一の傑物であったとされる。六七年の大政奉還には反対を唱えていたが、六八(明治元)年一月三日の鳥羽・伏見の戦で幕府軍が敗れ、この戦で新政府における討幕派の主導権が確立。前将軍・徳川慶喜に主戦論を主張したが、ほどなくして勘定奉行を免職となった。
その後は知行地の上野国群馬郡権田村(現・群馬県群馬郡倉淵村権田)に引退。そこで農兵の養成にあたっていたが、反逆を企てていると疑われ、冤罪を主張したものの聞き入れられず、官軍によって烏川のほとりで斬刑。江戸では駿河台に居住していた。