大村益次郎 【おおむら ますじろう】

1824年~1869年
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幕末・明治初期の兵学者。
周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。名は蔵六。

弘化3年(1846)、大阪の緒方洪庵の適々斎塾で蘭学と医学を学び、塾長となる。長崎でシーボルトに師事。のち郷里で医者を開業。また宇和島藩に招かれて、兵書翻訳や軍艦製造を指導。安政3年(1856)には江戸(現在の三番町)に、蘭学塾・鳩居堂を開いた。宇和島藩御雇の身分のまま、同時に幕府の蕃書調所教授方手伝となり、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857)幕府の講武所教授となった。

万延元年(1860)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。萩で兵学を講義。攘夷運動や兵制改革に活躍する。

慶応2年(1866)第二次長州戦争で軍略家として名をあげ、明治元年(1868)には、江戸上野で彰義隊を制圧。
 
翌年、新政府の兵部大輔となって、軍制の近代化を推進した。当時、新道一番町(現・三番町)に屋敷があった。

明治2年(1869)、大村は京都の旅館で刺客に襲われ重傷を負った。辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、容態が悪化し死去した。享年46。墓所は山口市鋳銭司にあり、靖国神社にも合祀されている。