太田道灌 【おおた どうかん】

1432年~1486年
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室町後期の武将。相模の生まれ。太田資清の子で名は資長。扇谷・上杉定正に仕えた。

1456年に江戸城の築城にとりかかり、翌年に完成。また、父とともに岩槻、河越の二城を築き、武蔵・相模の実力者となる。

1476年、山内・上杉顕定の家臣、長尾景春の乱が起こると、定正と顕定を守り、以後、数年にわたり、関東各地で景春の兵と戦う。これにより、扇谷上杉氏の勢力を強める一方で、みずからの名声も高めた。

ところがその後、山内、扇谷の両上杉家の対立が強まるなか、1486年、相模国糟屋(現・神奈川県伊勢原市)で、主君の定正に殺害された。扇谷家の内部対立と、扇谷家の台頭を怖れた山内家・顕定の陰謀ともいわれている。

道灌は、幼少の頃から学問を好み、とくに古今の兵書を読んで兵学に強く、軍法師範と称された。
なかでも足軽軍法を得意としたという。また詩歌を好み、八五年には臨済宗の僧、万里集九らを江戸城に、あるいは建長寺や円覚寺の学僧を隅田川に招いて船を浮かべるなどして、たびたび詩歌会を催した。

道灌が1478年に江戸平河城内梅林坂上に創建した平河天満宮(平河天神)は、九〇年に徳川家康によって上平河村に、その後一六〇六年には秀忠によって現在地に奉還され、以来、江戸市民の崇敬を集めながら、今日にいたっている。