伊東玄朴 【いとう げんぼく】

1800年~1871年
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幕末・維新期の蘭方医。肥前国神崎郡の農家、執行重助の子。名は淵。のち、佐賀藩士・伊東祐章の養子となった。

16歳のとき医学を志し、はじめは漢方医・古川庄庵に師事して1818年(文政元)に開業。
1822年には佐賀藩医・島本◆龍嘯【りゅうしょう】に蘭方の手ほどきを受ける。
翌年、長崎の◆猪股【いのまた】伝次右衛門にオランダ語を学び、ついでシーボルトにも師事して蘭医学を修めた。
1826年、シーボルトの江戸参府に同行。二年後、シーボルト事件に連座し、一時入獄。その後、玄朴と改名した。
1833年、御徒町に蘭学塾・◆象先堂【しょうせんどう】を開設。
1843年には佐賀藩主・鍋島直正の御側医となり、その頃流行していた痘瘡を予防するための、牛痘苗輸入を直正に進言。
1849年に長崎の出島に到着した痘苗を用いて、長崎、佐賀で種痘に成功し、西日本に普及した。
1858年、徳川家定が重病のとき、西洋内科医として初めて幕府奥医師に抜擢され、同年、江戸の蘭方医50余人とともに、神田お玉が池に種痘所を設立。これがのちの東大医学部の前身、西洋医学所となった。オーストリアのビスコッチ教授の書を訳した『医療正始』(二十四巻)のほか、オランダの製鉄・鋳造の本を訳した『西洋鉄鋼鋳造篇』など、訳書も多い。